メモ |
- 日本の川は「勾配が大きい」ということに加えて「短い」という特徴がある。その意味で上流から下流までの全体像が昔からわかっていた。ヨーロッパでは1500年代に「水文学」が確立するまで「海の水が地中を遡って山に登り、川として流れてくる」と考えられていたが、日本では雨が川になることを縄文時代からわかっていたのではないか。川の上流の祠に海産物を祭っているところもある。海のために山が必要なことを知っていたということだ。川を全体像として捉えてきた歴史が私達にはあると思う。
- 川の定義として河川工学の教科書では「河川とは地表面に落下した雨や雪などの天水が集まり、海や湖などに注ぐ流れの筋(水路)などと、その流水とを含めた総称である」としているが、私は、「川とは、地球における物質循環の重要な担い手であるとともに、人にとって身近な自然で、恵みと災害という矛盾の中に、ゆっくりと時間をかけて、地域文化を育んできた存在である」と定義したい。「物質循環」としたのは、水と一緒に流れてくる落ち葉や土砂が川や海の生物をはぐくむ栄養となり、生息環境をつくるとともに、ダムに溜められると落ち葉は無酸素状態でヘドロ化し、ダムの堆砂が大きな問題になっているからである。
- 土砂の浚渫を行っても、たまる量に追いついていない場合が多い。どんなダムも、期間に長短はあっても、いずれ土砂で埋まることは間違いない。それがわかっていながら、日本では約2700のダムを造りつづけてきた。安易に造り過ぎたと考えている。
- 治水対策には堤防やダム、遊水地などがあるが、基本は堤防であり、ダムや遊水地は補助的である。肱川は上流にダムが早くから整備されてきたが、下流の堤防づくりは日本の一級河川の中で遅れており、江戸時代のままの遊水地が残されている。
- 100年に一度起こるような大雨の場合、「水を川の中に閉じ込めて、できるだけ早く海に流す」という考え方だけで洪水を防ぐことは所詮、無理である。溢れないものだと思いこんでいたために、かえって溢れてしまった場合に対応できないで災害を大きくしてしまうことも多い。こういう考え方は、すでに1977年の「総合治水対策」にも盛り込まれ、校庭や駐車場、遊水地などを利用していく考え方が述べられている。
- 江戸時代には10年に一度くらいの洪水ならば、許容されていた。そして、水が溢れても被害を大きくしないように、家を高床式にしたり、水害防備林で水の勢いをやわらげ、土砂を濾過していた。肱川の水害防備林はすばらしい。これもそういう知恵である。ただ、今では10年に一度の水害では困るが、私は一生に一度、床下浸水くらいならば許容してもいいのではないかと思っている。そういうふうに考えた方が、かえって「水が溢れても人に危害は与えない」という状況を作っていけるのではないか。
- 私はかつて「例えば、洪水や雪解け水は無駄に流れさってしまうだけなので、流域変更して他の地域にあげても差し支えない」と考えていたが、今は「無駄な水はない」と考えている。洪水や雪解け水など大きな流れが川をつくり、海に土砂や栄養を大量に運んでいたのである。川をつくってきた水が流れてこそ、その川ならではの環境をつくり出しているのである。
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